2025年4月26日

早春賦 初版書影

叢書 初版
出版社 角川書店
発行日 2006/01/30
装幀 水口理恵子、角川書店装丁室

運命に翻弄される若者たちの成長物語

江戸時代初期、徳川家康の治世下の八王子を舞台にした山田正紀の「早春賦」は、歴史的事件を背景に青春の輝きと苦悩を描いた作品です。大久保長安の死をきっかけに生じた政治的対立が、幼なじみだった少年たちを敵味方に分け、彼らの成長と友情の物語を描く本格時代小説です。

山田正紀は伝奇小説やSF的要素を取り入れた時代小説を多く手がけてきた作家として知られていますが、「早春賦」では純粋な時代小説として描かれており、その意味で異色の一作となっています。

作品の舞台と背景

舞台は1613年(慶長18年)の八王子。主人公・風一は八王子で「千人同心」と呼ばれる半士半農の郷士の家に生まれた17歳の少年です。千人同心とは、元々は武田家の家臣だった武士たちが、織田信長、徳川家康の支配下となった後も八王子に残り、幕府に仕える郷士集団となったものです。

物語は八王子総奉行・大久保長安の死から始まります。大久保長安は徳川家康の重臣で、全国の金山開発によって幕府の財政を支えるとともに、自らも巨万の富を築いた人物でした。その死後、幕府は長安の莫大な財産に目をつけ、長安の一族郎党に死罪を言い渡します。これにより、長安の直轄家臣団「岩見衆」と千人同心との間に対立が生じることとなります。

ストーリー概要

物語は岩見衆と千人同心の対立から始まります。徹底抗戦を決意する岩見衆に対し、千人同心はそれに同調せず、やがて千人同心側の多くの重鎮が惨殺される事件が発生します。主人公・風一の父も殺害され、千人同心たちは幕府への忠誠を示すために八王子城に立てこもった岩見衆の掃討を命じられます。

風一は幼なじみの山坊や林牙とともに城攻めに加わりますが、その前に立ちはだかったのは、同じく幼なじみの火蔵と火拾の兄弟でした。彼らは岩見衆側につき、風一たちと敵対することになります。かつての友人同士が敵と味方に分かれ、それぞれの立場で戦わざるを得ない状況が生まれるのです。

物語の中心となるのは、風一、山坊、林牙の3人組による八王子城の潜入作戦です。八王子城は「八王死」とも呼ばれる堅城で、正面からの攻略は困難でした。そこで少年たちに与えられた任務は、城の守りの要となる部分を破壊することです。この任務遂行の過程で、彼らは火蔵・火拾兄弟との対決を余儀なくされます。

ここで山田正紀ファンは「ん?」となることでしょう。何か馴染んだ感覚だ、と感じるはずです。

登場人物

本作の主な登場人物は以下の通りです:

  • 風一:17歳、千人同心の家に生まれた主人公。
  • 山坊:風一の幼なじみで、千人同心側につく。
  • 林牙:風一の幼なじみで、千人同心側につく。
  • 火蔵:風一たちの幼なじみだが、岩見衆側につく。
  • 火拾:火蔵の弟で14歳、岩見衆側につく。
  • きぬ:風一が思いを寄せる少女。

彼らは幼い頃からともに遊び、育った仲間でしたが、大人たちの対立によって敵味方に分かれることになります。彼らの間に個人的な恨みはなく、それぞれが自分の立場と信念に基づいて行動しています。

作品の特徴

1. 純粋な時代小説としての側面

「早春賦」は山田正紀の作品としては珍しく、伝奇的要素やSF的な要素を含まない純粋な時代小説です。武田家の歴史や八王子の地理、当時の生活などが丁寧に描かれ、史実に基づいた世界観が構築されています。

2. 青春群像劇としての側面

本作は17歳前後の少年たちを中心に据えた青春群像劇でもあります。彼らは大人たちの争いに巻き込まれながらも、それぞれの立場で成長していく姿が描かれています。特に主人公・風一の成長は、章題に蚕の成育段階を表す用語が使われていることからも分かるように、物語の重要なテーマとなっています。

「蚕の成長になぞらえて、少年たちが激動の中で急速に成熟していく」(参考:黄金の羊毛亭

3. ミッション・インポッシブル型の展開

物語の後半では、風一たちによる八王子城への潜入作戦が描かれ、「ミッション・インポッシブル」型の展開となります。難攻不落の城への侵入計画と実行、そして友との対決という構図は、緊張感と興奮をもたらします。

冒頭の「ストーリー概要」で、「あれ?これは・・・」と感じた方、そうです。あの作品なんです。

八王子城攻めにおいて主人公の風一ら少年たちが担った特殊な任務に焦点が当てられた、傑作『火神を盗め』を思わせる“ミッション・インポシブル”型の物語となっている(参考:黄金の羊毛亭

4. 友情と対立のテーマ

本作で最も心に残るテーマは、幼なじみ同士の対立です。彼らは個人的な恨みではなく、それぞれが属する集団のために戦わざるを得ない状況に置かれています。「黄金の羊毛亭」の評にあるように、「幼なじみ同士であるからこそ、その勝負は純粋でフェアなもの」となり、勝者も敗者も死力を尽くして戦う姿に読者は胸を打たれます。

5. 戦略と知性の重視

「オッド・リーダーの読感」では、本作が「忍術、剣術、体術より、敵を騙す頭脳戦が決め手になる」物語だと評価されています。確かに、風一たちの任務遂行においては、単なる武勇だけでなく、知恵と戦略が重要な役割を果たしています。山田正紀は「両手で剣を握る正当剣法を馬鹿にしてる」と評されるほど、現実的な戦いの描写を心がけています。

「科学的に正しい時代考証を基に、リアルな戦闘と暮らしを描写している」(参考:オッド・リーダーの読感

作品評価

山田正紀の「早春賦」は、各レビューサイトで高い評価を受けています。「黄金の羊毛亭」では「なかなかの傑作」と評され、「ミスナビ」でも「この小説そのものは秀作である」と言及されています。

特に評価が高いのは以下の点です:

  1. リアリティのある時代設定 武田家の歴史や八王子の地理、当時の言葉遣い(甲州弁と尾張弁)などが丁寧に描かれ、「科学的に正しい時代小説」(オッド・リーダーの読感)と評価されています。
  2. 純粋な少年たちの生き様 「風一、山坊、林牙、火蔵、きぬ、それぞれの登場人物たちの生き様が純粋」(ミスナビ)であり、読者の心を打ちます。
  3. 読後感の良さ 「読了後に爽やかな気持ちにさせてくれる」(ミスナビ)、「読後感は悪くない」(MIDNIGHT DRIKER)など、爽やかなカタルシスを与える作品として評価されています。

一方で、「たまらなく孤独で、熱い街」のレビューでは、「青春群像風でもなく、主人公(風一)に感情移入できるわけでもなく」と指摘されており、山田正紀特有の「覚めた目で描く」文体によって、読者との感情的な距離が生まれることもあるようです。

しかし、それも「これが山田正紀らしさ」とされており、作家の個性として受け入れられています。

まとめ

山田正紀の「早春賦」は、徳川時代初期の八王子を舞台に、大久保長安の死をきっかけとして敵味方に分かれた幼なじみたちの成長と友情、対立を描いた本格時代小説です。伝奇的要素やSF的な要素を含まない純粋な時代小説としては山田正紀の作品の中でも珍しい一作であり、その意味で貴重な作品と言えるでしょう。

少年たちの純粋な生き様と、困難な状況での成長が丁寧に描かれ、読者に爽やかなカタルシスを与える作品として高く評価されています。特に、幼なじみ同士の純粋な対決と、それを通じての成長というテーマは、時代小説としてだけでなく、ビルドゥングス・ロマン(教養小説)としても読み応えのある作品となっています。

山田正紀は「このような本格的な時代小説も書けるんだと言うことにいい加減気がついてくれ」(ミスナビ)という熱い思いになるファンがいるように、その期待に違わず、「早春賦」は山田正紀の多彩な才能の一端を示す秀作となっています。

参考文献

  1. 黄金の羊毛亭「早春賦」感想
  2. たまらなく孤独で、熱い街「早春賦」感想
  3. オッド・リーダーの読感「早春賦」感想
  4. ミスナビ「早春賦」感想
  5. MIDNIGHT DRIKER 真夜中の読書録「早春賦」感想

文庫・再刊情報

早春賦 文庫書影

叢書 角川文庫
出版社 角川書店
発行日 2009/03/25
装幀 浅野隆広、都甲玲子(角川書店装丁室)