叢書 | 新潮文庫 |
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出版社 | 新潮社 |
発行日 | 1987/12/20 |
装幀 | 張仁誠 |
はじめに
山田正紀のSF作品『エンジェル・エコー』は、広大な宇宙を舞台とした冒険小説であると同時に、私たち読者に人間性や意識の限界を問いかける深遠なテーマを与えてくれます。本作は「超空間」と呼ばれる未知の領域への探索を通じて、主人公“ぼく”の内面世界や葛藤、そして銀河最高のキャンペーンガールにして冒険家である香青玉の運命を描いた長編SFです。
1. あらすじ
1-1. “超空間”とは何か
本作の舞台は、太陽系の辺境――と言っても、物語の焦点は“超空間”という未知なる領域にあります。周期的に太陽系に接近してくるこの“超空間”は、もともとは反物質の塊だと考えられていました。しかし、その後に提出された仮説によると、**「ビッグバン以前の宇宙の残滓である時空の揺らぎ(時空情報)」**だというのです。
物語上、“超空間”は未知のエリアでありながら、巨大コングロマリット「KAWADA」による数度の探査が行われています。しかし、幾度となく送り込まれた探査体はすべて失敗。そこには何らかの“障壁”や“現実の物理法則では測り知れない力”が働いていることが示唆されます。
1-2. 香青玉と“ドライ・マーティニ”
KAWADAグループが掲げる探査プロジェクトの中心には、宇宙冒険家の香青玉というヒロインがいます。彼女は5年前に“超空間”への有人探査体「ドライ・マーティニ」に搭乗し、生還を果たしたものの心身に重大なダメージを負い、**「抜け殻のようになってしまっていた」**のです。その後、同じくKAWADAグループの最重要ミッションとして、新たな探査プロジェクトが始動します。
本作では、彼女がなぜ無事に戻れたのか、あるいはなぜ“抜け殻”の状態となってしまったのかが、大きな物語の柱となっています。しかも“香青玉”は一人ではない――いわゆるクローン技術により、**「実は何体目かのクローン」**という設定も衝撃を与えます。
1-3. 語り手“ぼく”の運命とシンクロ
本作では、物語の視点が“ぼく”と呼ばれる16歳の少年――いわゆる「ヴァット・チャイルド(培養槽で育てられ、両親を知らず、社会から蔑視される存在)」によって語られます。彼は5年前、まだ9歳だったころに月の地底でニュートリノ検出装置の爆発事故に遭遇し、ただひとり生き残りました。そのときに見たのが、宙に浮かぶ美女(香青玉)であり、声まで聞こえたというのです。
KAWADAの科学者たちは、これを超空間と現実世界の時空断層に由来する“精神的なシンクロ”と分析し、少年の脳内に残るその記憶を深く研究します。その結果、彼は月面へ逃亡するも、一度はスラムで生活し、そこから再びKAWADAへ戻っていく――という波乱万丈の人生を歩むことになるのです。
1-4. 新たな探査プロジェクト
物語のメインとなる探査は、有人制御突入体「オリーブ」を用いて“超空間”へ再度挑戦するというもので、“ぼく”と香青玉の二人が搭乗します。前回の“ドライ・マーティニ”に続く大型ミッションともいえるこの計画は、次のようなフローで行われます。
- オリーブ突入用緩衝体「ヴェルモット」の支援を受け、超空間へ転送
- 超光速で移動する人工構造物「カクテル・グラス」(内部に異次元知性体もしくはロボット制御体が存在?)に接触
- 何らかの情報を得たうえで、時空共鳴震動増幅子「シェイカー」によって通常空間へ再転送
今回の探査で明らかになるのは、“超空間”では通常の物理法則が通用せず、質量が容易にエネルギーに変換されてしまうという事実です。そこに生身の人間が乗り込む以上、危険は計り知れません。そして、5年前に青玉に起こったことが、またもや“ぼく”の身にも起こるのではないか――そんな不安が作品全体に張り詰めています。
1-5. 超空間で起こった異変
いざ“超空間”へ突入したオリーブですが、やはり想定外の問題が連続します。とりわけ緊急事態として発生するのが、コールドスリープ状態にあった香青玉の危機です。彼女の装置からSOSメッセージが発信され、“ぼく”は彼女を助けるため、計画外の船外活動を余儀なくされます。ここで“ぼく”は、青玉を救い出すと同時に、超空間がコンピュータや人間の精神に及ぼす作用に気付き、5年前の“ドライ・マーティニ”の出来事――すなわち9歳の“ぼく”が目撃した謎の現象――がどのようにして起きたかを悟るのです。
2. 紹介
2-1. “カクテル・グラス”の謎
「超空間の内部には超光速で移動する巨大な人工構造物が存在する」とされ、これが通称「カクテル・グラス」と呼ばれています。誰が作ったのか、何の目的なのか、誰ひとり知りません。本作は、この構造物が象徴する“未知への恐怖”と“探求心”を軸に、物語を進めていきます。そこに多国籍コングロマリットKAWADAが巨額の資金を投入してでも解明しようとする価値があるということ。いわば、“人類の叡智”と“未知の存在”との対峙がテーマの一つだといえるでしょう。
2-2. 香青玉の存在感
もう一人の主役である香青玉は、銀河最高のキャンペーン・ガールである一方、冒険家として華々しい経歴を持ちながら、5年前の事故を境に精神が大きく損なわれています。クローン技術による存在であること、酒に酔い泥酔してはスラムを彷徨う姿など、彼女の姿には人間の“光と影”が凝縮されています。強烈なアイコン性と内面の脆さ。この両面が合わさったキャラクターは、物語の重要な鍵でもあります。
2-3. “ぼく”の回想
本作の冒頭から前半部分「Part 1」にかけては、“ぼく”の回想が延々と続きます。コールドスリープに入る直前に夢うつつの状態で見る走馬灯のような断片、トラウマ、子供の頃の些細なエピソードなどが渾然一体となって浮かび上がります。一見脈絡のない思考の連鎖ですが、実は物語の世界観や設定を巧みに織り込む仕掛けになっています。
山田正紀の代表作の一つ『超・博物誌』でも、小さな生物の生態を通して“世界”を描き出すような独特の筆致が見られましたが、本作でも回想が広大なスケールの世界設定とつながり、読者はまるでパズルを解くように地続きの“世界”を再構築する感覚を得られます。
3. 感想
3-1. “語り口”そのものが物語
SF作品においては、“何を語るか”ではなく、“どのように語るか”が重要になることが少なくありません。本作はその典型といえます。ハードSF的な設定(超空間での質量⇔エネルギー転換や時空の揺らぎなど)も読み応えがありますが、それ以上に印象に残るのが、語り手“ぼく”が延々と紡ぎ出す内省的なモノローグです。
全体のプロットとしては、超空間探索→接触→帰還というシンプルな流れに見えますが、そこへ至るまでに挟まれる“ぼく”の回想が複雑な人間模様や世界観を構築していくことで、物語に深みを与えています。結果として読者は、単なる“宇宙冒険もの”にとどまらない、“内面世界の探求”にも巻き込まれるわけです。
3-2. “ヴァット・チャイルド”と社会
語り手の“ぼく”がヴァット・チャイルドであることも、本作の大きなテーマを象徴しています。社会的に差別・蔑視されている立場の主人公が、銀河規模の探査ミッションに起用されるという構図。ここには、山田正紀流の痛烈な社会批判や格差への視点、そして不遇な個人の中に潜む可能性といった要素が強く織り込まれています。
たとえば、子供のころに経験した爆発事故のトラウマを経て、多国籍企業による強要・監視を受ける一方で、月面スラムでの仲間との出会いが彼を変える。こうした過程を経て“ぼく”は、再びKAWADAグループの危険なプロジェクトに加担する道を選ぶ――という心理の動きが、作品全体の大きな転換点となっています。
3-3. 山田正紀の文体と仕掛け
山田正紀は『エンジェル・エコー』以前より、**独特の“仕掛け”**を随所に施すことで知られています。本作でも、読者の思考を飛躍的に誘うような演出――たとえば“ぼく”の脳内連想、ギリギリのタイミングで発生する超空間現象、そして青玉との精神的な共鳴――が繰り返されます。そのため、一読しただけでは全貌を掴みきれない印象を受けることもありますが、それこそが本作の“再読”を促す魅力の源です。
4. 作品の意義
“超空間”というSF的デバイスは、本来なら科学的根拠を詳細に提示しづらい面がある一方で、山田正紀は作品世界の整合性を保ちつつ、その「あり得なさ」をエンターテインメントの形に落とし込んでいます。そこには、**「ビッグバン以前の宇宙の残滓」**というロマンティックかつ壮大な発想と、人間の精神やトラウマに根差したきわめてパーソナルなドラマが見事に共存しています。
一方で、作品全体が緻密な理論と解釈を要求するかというと、むしろ物語後半の盛り上がりは読者の想像力に委ねられる部分が大きいと言えます。山田正紀が紡ぐ“謎”や“仕掛け”に付き合うことで、私たちはSFの醍醐味である「思考実験」を体験できるでしょう。
5. おわりに
『エンジェル・エコー』は、その奇抜なタイトルや設定から一見とっつきにくい印象を与えるかもしれません。しかし、読み進めるうちに見えてくるのは、“未知の領域に踏み込む人間”と“内面世界での葛藤”という王道のドラマです。しかも主人公は、社会から疎外される存在であるヴァット・チャイルド。読み手は、彼の回想に寄り添いながら、壮大な宇宙ときわめて狭い人間の意識世界との対比に圧倒されることになるでしょう。
本作が刊行された当時、山田正紀はすでに多数のSF作品やミステリ作品を手掛けていましたが、『エンジェル・エコー』はその中でも特に**「ストイックなイメージ」と「奔放なアイデア」**が同居する一冊とされています。ビッグバン以前の宇宙やクローン技術、ヴァット・チャイルドの社会的背景など、多くの要素が詰め込まれながらも、一貫して「人間の意識はいかにして未知の領域と対峙するのか」という問を突きつけてくる点が、読後に強い余韻を残す理由だと言えるでしょう。
最後に、本記事ではできるだけ“超空間”の謎の核心部に言及せず、作品の雰囲気や読み味をお伝えすることを重視してきました。“超空間”を含む世界設定の詳細は、実際に本編を通じて触れた方が、より鮮烈なインパクトを得られるはずです。山田正紀ならではのダイナミックなSF世界を、ぜひじっくりと堪能してみてください。