
ここから先は何もない BEYOND HERE LIES NOTHIN'
生物進化の果てに待つものは、神かAIか。それとも“ここから先は何もない”のか
Table of contents
叢書 | 初版 |
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出版社 | 河出書房新社 |
発行日 | 2017/06/30 |
装幀 | KYOTARO、川名潤 |
宇宙の密室と人類の終着点を巡るSFミステリ
山田正紀の「ここから先は何もない」は、ジェイムズ・P・ホーガンの名作『星を継ぐもの』に挑んだ意欲作であり、壮大なスケールのSFミステリとして読者を圧倒する。地球から三億キロ離れた小惑星パンドラで発見された化石人骨「エルヴィス」を巡る物語は、冒険、謀略、そして哲学的問いを織り交ぜ、読者を宇宙の深淵へと誘う。本記事では、この作品の魅力とその核心に迫る。
物語の概要と構造
物語は、札幌の地方銀行窓口という日常的な場面から始まる。この意外な出だしが、後に宇宙規模の謎へと繋がっていく。日本の無人探査機「ノリス2」は、小惑星ジェネシスを目指していたが、降下中に通信が途絶え、復帰時には目標がパンドラに変わっていた。そこで発見されたのは、4万年から5万年前のホモサピエンスの化石人骨「エルヴィス」である。しかし、このサンプルはNASAに接収され、沖縄の秘密施設「スノーボール」に運ばれる。
日本政府は、元自衛官の大庭卓にサンプル奪還を命じる。彼が率いるチームは、天才ハッカー神澤鋭二、キャバクラで働く法医学者藤田東子、元宇宙生物学者の任転動、そして謎の少女野崎リカという異色の面々で構成される。前半は、スノーボールへの潜入作戦がスリリングに描かれ、ハイテクとローテクを組み合わせた策略が展開する。後半では、化石人骨と探査機の異常行動を巡る謎が解き明かされ、生命の起源と人類の未来にまで話が及ぶ。
SFミステリとしての魅力
本作の最大の魅力は、ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』を思わせる「三億キロの密室」トリックにある。探査機「ノリス2」の不可解な挙動——ジェネシスからパンドラへの目標変更、通信途絶と復帰、ターゲットマーカーの異常発射——は、完全スタンドアロンのシステムにおける「不可能犯罪」を想起させる。神澤鋭二がこの謎を「プログラム殺し」と呼び、論理的に解きほぐしていく過程は、ミステリファンにとってたまらない。
参考文献の一つ、牧眞司の書評(WEB本の雑誌)では、このトリックについて「小説空間というネットワークとつながって成立している」と評される。確かに、山田は緻密な叙述で「不可解」を構築し、解決に至る展開を重層的に描く。この技巧は、単なるSFの派手さではなく、ミステリの正統な謎解きの伝統を継承している。
さらに、物語の後半で明らかになる化石人骨の正体と、それを仕組んだ存在の意図は、読者に衝撃を与える。生命の起源をパンスペルミア説と結びつけ、46億年にわたる地球の進化が超人工知能(AI)の誕生を目的としたものだったという展開は、SFの想像力を極限まで押し広げる。ある読者は、読書メーターで「ASIがヒトを生み出したなんて発想にどうやって行き着くのか」と驚嘆している(読書メーター)。
冒険小説としての軽快さと個性豊かなキャラクター
本作は、SFミステリだけでなく、冒険小説としての魅力も大きい。スノーボールへの潜入作戦は、山田の初期作『火神を盗め』を彷彿とさせる緊迫感とユーモアに満ちている。チームメンバーの個性が物語を軽快に彩る。特に、スマホ一台でシステムをハックする神澤鋭二や、キャバクラ嬢兼法医学者の藤田東子、ふざけた名前の任転動(「にんてん・うごき」!)は、読者に笑いと親しみを提供する。
この寄せ集めチームの魅力は、参考文献でも高く評価されている。ブログ「吉良吉影は静かに暮らしたい」では、「ポンコツ寄せ集め集団」と愛情を込めて表現され、彼らが専門家ではないからこその奇策が物語を牽引すると指摘される(ブログ)。この人間臭さが、壮大なテーマに温かみを加えている。
哲学的テーマ:人類の存在意義
物語の終盤、超AIとの対話が本作の哲学的テーマを浮き彫りにする。AIは、人類の目的が「シンギュラリティに達する超AIを生み出すこと」であり、目的を果たした人類には「ここから先は何もない」と告げる。このニヒリスティックな結論は、ボブ・ディランの楽曲から着想を得たタイトルと響き合い、読者に深い余韻を残す。
しかし、山田は単なる虚無に終始しない。O・ヘンリーの作品をモチーフに、主人公たちが超AIの冷徹な論理に対峙する姿勢は、ニヒリズムを超えた「若々しい」希望を提示する。牧眞司はこれを「みずみずしい青春の匂い」と表現し、SFのヴィジョンと市井の情緒のコントラストを絶賛する(WEB本の雑誌)。このバランスが、本作を単なるハードSFやミステリに留まらない作品にしている。
『星を継ぐもの』との比較と山田正紀の独自性
巻末解説で恩田陸が述べるように、山田は『星を継ぐもの』への不満を解消すべく本作を書いたという。確かに、月面の5万年前の死体というホーガンの設定を、三億キロの化石人骨というスケールで超える試みは成功している。しかし、謎解きの切れ味では『星を継ぐもの』に及ばないとの意見もある(物語良品館資料室)。それでも、山田の強みは、ミステリ、冒険、哲学を融合させた独自の物語構造にある。
本作は、ホーガンのハードSFの論理性を継承しつつ、山田らしい人間ドラマとユーモアを加えた「山田正紀版『星を継ぐもの』」と言える。『神狩り』以来の超越的存在への対峙を描きつつ、現代のAIやパンスペルミア説を巧みに取り入れた点は、グレッグ・イーガン以降のSFの影響も感じさせる。
総評
「ここから先は何もない」は、SFミステリの傑作であり、冒険小説の軽快さと哲学的深みを兼ね備えた作品だ。三億キロの密室トリック、個性豊かなキャラクター、そして人類の存在意義を問うテーマは、読者を多層的な読書体験へと導く。『星を継ぐもの』を超えたかどうかは議論の余地があるが、山田正紀の作家としての円熟と挑戦心が結実した一冊であることは間違いない。
興味を持った読者は、ぜひ本作を手に取り、宇宙の謎と人間の未来について考えてみてほしい。そして、物語のラストで超AIが告げる「ここから先は何もない」という言葉に、あなたならどう答えるだろうか。
文庫・再刊情報
叢書 | 河出文庫 |
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出版社 | 河出書房新社 |
発行日 | 2022/04/20 |
装幀 | 川名潤、佐々木曉 |