
私を猫と呼ばないで
甘いのにほろ苦い。掌編サイズの『ビター・ショコラ・ノワール』。
Table of contents
叢書 | 初版 |
---|---|
出版社 | 小学館 |
発行日 | 2007/12/15 |
装幀 | 宇野亜喜良 |
収録作品
- 消えた花嫁
- 親孝行にはわけがある
- 猫と女は会議する
- 津軽海峡、冬景色
- つけあわせ
- 女はハードボイルド
- 窓の見える天窓
- 恋の筑前煮
- カゴを抜ける女
- スイサイド・ホテル
- 恋のコンビニ愛のチップス
- 足りないものは何ですか?
- 壁の花にも耳がある
- 私を猫と呼ばないで
日常の裂け目から覗く、人間の真実
山田正紀といえば、『神狩り』や『最後の敵』で知られるSF界の巨匠であり、本格ミステリや時代小説でも数々の賞を受賞してきたマルチジャンルの作家です。そんな彼が2007年に小学館から刊行した短編集『私を猫と呼ばないで』は、SFやミステリとは一線を画す、日常に根ざした人間ドラマを繊細に描いた作品集です。月刊誌「遊歩人」(2005年5月号~2007年6月号)に掲載された「男と女のいる舗道」という連載から厳選された14篇で構成されており、原稿用紙20枚程度の短い物語が織りなす情感豊かな世界は、読者の心に静かな余韻を残します。
『私を猫と呼ばないで』の全体像
『私を猫と呼ばないで』は、日常の中で起こるささやかな出来事や人間関係を軸に、コミカル、シリアス、ほのぼの、ブラックといった多様なテイストで展開する短編集です。各話は独立しており、登場人物や設定も異なるため、気軽に読み進められる一方で、どの物語にも山田正紀らしい「ちょっとした仕掛け」が施されています。これにより、短い分量ながら読後に深い思索や感情を呼び起こす作品に仕上がっています。
装幀を担当した宇野亜喜良のイラストも、本書の雰囲気を引き立てます。柔らかくもどこかミステリアスなタッチは、日常と非日常が交錯する本書のトーンにぴったりです。
多様な味わいの短編群
試みに味わい別にグループに分けてみました。参考程度にお考えください。
ミステリ風味
1. 消えた花嫁
地方の郷土史をめぐる旅先で、ある都市伝説のような“花嫁の失踪”を辿る女。
ミステリ要素を交えた、心に残る淡い幻想譚。
7. 窓の見える天窓
余命宣告された上司の最後の頼みを受け、彼の恋人が口にしていた“窓の見える天窓”を探す男の物語。
静かに染み入る喪失と回想。読後感が爽やか。
13. 壁の花にも耳がある
派遣社員たちが社内政治に巻き込まれる“壁の花”たちの逆襲劇。
ミニゲーム的な構造が楽しく、読みやすい。
心温まる物語
2. 親孝行にはわけがある
子どもに“なぜパパはいないの?”と聞かれたシングルマザーが語る、人生の軌跡。
少し演出過多だが、愛情と覚悟が伝わるエピソード。
3. 猫と女は会議する
夜の町でネコたちが円陣を組んでいる――“ネコの会議”を見つけた女の物語。
幻想と現実の境界を曖昧にする、不思議でやさしい世界。
少し不思議な味
10. スイサイド・ホテル
海辺にあるのは“ちょっと死んでいる人たち”が集うホテル。
「奇妙な味」の代表作。ストーリーではなく、空気を味わう一作。
14. 私を猫と呼ばないで
浮気現場で妻に踏み込まれ、八階の窓の外へ逃げた“私”。ビルの外壁を伝っていくうちに、隣室の人々の人生を垣間見ることに…。
軽妙なテンポで描かれる現代の“滑稽悲劇”。 人間模様のコントラストが絶妙。
コミカル&ブラック
6. 女はハードボイルド
農協で働く女性がATM強盗に遭遇し、思わず反撃!
コミカルで爽快、やりすぎ感もどこか心地よい。
8. 恋の筑前煮
冷凍惣菜開発に奮闘する女性社員。筑前煮にかける情熱と、秘めた想い。
淡い恋と仕事のせめぎ合いに、思わず共感。
9. カゴを抜ける女
質屋で突然捕まった女は、実は――?
スリリングで軽妙な“逃げ”の物語。軽犯罪劇としての完成度が高い。
11. 恋のコンビニ愛のチップス
失恋した女子高生が、ポテチに慰めを求めて……。
あまりに突飛な発想がむしろリアル。“若さ”が詰まった話。
12. 足りないものは何ですか?
家具屋で、もう一組のラヴチェアを求める夫婦の会話の行方は――?
“ああ、そう来たか!”と読者をニヤリとさせる結末。
人生の哀歓
4. 津軽海峡、冬景色
離婚届提出の前に、男が思い出す“青函連絡船”の記憶。
過去と現在の交錯が切なく、ラストの一行に心を揺さぶられる。
5. つけあわせ
スーパーのベンチで刻みキャベツを食べ続ける老婆。その行動の“理由”とは?
日常の違和感が、しだいに不条理へと変わる構成が巧み。
テーマと魅力
『私を猫と呼ばないで』の最大の魅力は、日常のささやかな瞬間を切り取り、そこに潜む人間の喜び、悲しみ、愛、孤独を丁寧に描き出す点にあります。SFやミステリで知られる山田正紀ですが、本作ではジャンル小説の枠を超え、普遍的な人間ドラマに焦点を当てています。たとえば、「親孝行にはわけがある」ではシングルマザーの心情を、「スイサイド・ホテル」では死と向き合う人々の微妙な感情を、短い分量で鮮やかに表現しています。
また、各作品には「仕掛け」が施されており、単なる日常のスケッチに留まらない奥行きを与えています。たとえば、「窓の見える天窓」では、謎めいた言葉が物語を牽引し、最後にさわやかな余韻を残します。これらの仕掛けは、山田のミステリ作家としての経験が活かされており、読者を驚かせつつも物語の情感を損なわないバランスが絶妙です。
Web上の感想では、「コミカル、シリアス、ほんわか、ブラックと、さまざまな読み口が楽しめる」との声が多く、読者によって異なる作品がお気に入りとして挙げられています(ブクログ)。この多様性が、本書の幅広い魅力の一因と言えるでしょう。
山田正紀の新たな一面
山田正紀は、SFやミステリで壮大な物語を構築する作家として知られていますが、本作では短編ならではのコンパクトな構成で、日常の機微を描く新たな一面を見せています。アメブロのレビューでは、「張り詰めた感じで書かれた小説とは違う趣きで楽しめた」とあり、息抜きのような軽やかな筆致が好評です(たまらなく孤独で、熱い街)。また、作者自身があとがきで「20枚の短編は初めての経験」と述べ、試行錯誤の末に生まれた作品集であることを明かしています。この挑戦が、読者に新鮮な驚きを与える結果となりました。
読むべき理由
『私を猫と呼ばないで』は、以下のような方におすすめです:
- 日常の中の小さな奇跡や人間ドラマを楽しみたい方
- 山田正紀のSFやミステリ以外の作品に触れてみたい方
- 短編小説の軽やかな読み口と深い余韻を求める方
14篇の物語はそれぞれ独立しているため、忙しい日常の中で少しずつ読み進めるのにも最適です。一方で、一気読みすることで、さまざまな人生の断片が織りなすモザイクのような美しさを感じられるでしょう。
おわりに
『私を猫と呼ばないで』は、山田正紀が日常のささやかな瞬間を愛情深く描いた、珠玉の短編集です。コミカルなエピソードからしんみりとした物語まで、多彩なテイストが織り交ぜられ、どの作品も読者の心にそっと寄り添います。宇野亜喜良の装幀が彩りを添える本書を手に取り、街角で出会う小さな奇跡に目を向けてみてはいかがでしょうか。