
叢書 | 初版 |
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出版社 | 徳間書店 |
発行日 | 2012/05/31 |
装幀 | 藤原ヨウコウ |
虚構と史実の狭間で揺れる、もうひとつの真田幸村伝
山田正紀の『ふたり、幸村』は、真田幸村という戦国時代のアイコンを大胆に再解釈した歴史伝奇小説だ。史料に乏しい「幸村」という名の起源に着目し、「真田信繁と幸村は別人だった」という斬新な設定を軸に、戦国から江戸への転換期を壮大なスケールで描き出す。本作は、SF作家としての山田の独創性と歴史への深い洞察が融合し、史実と虚構の境界を溶かすマジックリアリズムの手法で、読者を戦国の終焉と人間の物語へと誘う。
物語は、諏訪大社の雑人で真田家の早飛脚を務める少年・雪王丸が、奇妙な占いにより命を狙われる場面から幕を開ける。辛くも生き延びた彼は、真田昌幸の次男・信繁の身代わりとして「幸村」の名を与えられ、養子となる。雪王丸(幸村)と信繁は、年齢が近いこともあり、互いに深い絆を築きながら成長する。大坂夏の陣で徳川勢に立ち向かう頃には、なぜか二人とも「幸村」と呼ばれるようになり、一つの伝説として歴史に刻まれる。この設定は、講談で語られる「真田幸村」の虚構性を巧みに利用し、歴史の空白に新たな物語を紡ぐ山田の作家魂を体現している。
本作の最大の魅力は、雪王丸/幸村と信繁の人間らしい魅力と、彼らが体現する時代のうねりにある。雪王丸は、父・昌幸や兄・信幸のような鋭い知略や武勇を持たず、どこか茫洋とした性格で描かれる。しかし、彼は神託めいた夢や啓示を通じて、個人を超えた歴史の流れを見つめる視座を獲得していく。一方の信繁もまた、講談の英雄像とは異なり、父や兄の影で生きる凡人として登場する。あるレビュアーが「信繁の『カッコよく死にたい』という願い」に共感を覚えたと述べるように、二人の等身大の姿は読者に親しみを与え、物語の情感を深める(Amazonレビュー: )。
山田は本作で、戦国時代の終焉を「神々の交代」という象徴的なテーマで描く。ここでの「神」とは、超自然的な存在ではなく、歴史を動かす軍配師たち――真田昌幸、望月六郎、山本勘助、判兵庫らを指す。彼らは才覚で時代を操るが、戦国の終わりとともにその役割を終え、徳川家康が体現する「天道」――新たな秩序――に取って代わられる。このテーマは、単なる政治的変遷を超え、価値観や世界観の大変革として戦国から近世への移行を捉える山田の視点を示している。あるブログは、これを「神と人の物語」と表現し、幸村が神々の戦いに巻き込まれながらも「人としての道」を選ぶ姿に本作の核心を見出している(時代伝奇夢中道 主水血笑録:)。
マジックリアリズムの手法も本作の大きな特徴だ。諏訪湖の御神渡りの情景や、鷹と馬といった神話的なモチーフ、雪王丸の夢に現れる深遠な「問い」は、物語に幻想的な奥行きを与える。これらの要素は、山田のSF的想像力を歴史小説に融合させたもので、読者に独特の感動を提供する。ある感想では、この描写を「アーサー・C・クラークのハードSFに近い」と評し、山田が意図的に超自然的説明を避けた点を高く評価している(オッド・リーダーの読感: )。また、自然と人間の宿命を強調する文体は、読者に独特のリズムと快感をもたらすと指摘されている(ブクログ: )。
ただし、本作は伝統的な真田幸村像を期待する読者には物足りないかもしれない。真田十勇士は登場するが、講談のような派手な活躍はなく、史実と虚構の橋渡し役として控えめに描かれる。たとえば、海野六郎と筧十蔵が「海野十蔵」として統合されたり、三好晴海入道が計略の名称として扱われるなど、講談のイメージを意図的に解体する試みが目立つ(Amazonレビュー:)。これは、山田が戦国乱世の終焉に焦点を当て、華やかな英雄譚よりも人間の内面や時代の移ろいを描くことを優先した結果だ。
物語の終盤、幸村と信繁が選ぶ「カッコいい最期」は、時代の流れに抗いながら自分たちの意志を貫く姿として心を打つ。ラストの言葉「頼みとすべき主は世に居ないものと心得よ。頼みとすべきは我が身一人、おのれをもっておのれ自身の主となすべし」は、戦国時代の終わりとともに新たな人間の自立を宣言する山田のメッセージだ(Amazonレビュー:)。
『ふたり、幸村』は、真田幸村の伝説を再構築し、戦国時代の終焉を神話的スケールで描いた野心作だ。史実と虚構、個人と歴史、人間と神の対比を通じて、読者に深い思索と感動を与える。山田正紀のSF的想像力と歴史への洞察が融合した本作は、時代小説の枠を超え、現代の読者に新たな視点を提供する。戦国時代の終わりを彩る二人の幸村の物語を、ぜひ手に取って体感してほしい。