2025年4月29日

カオスコープ 初版書影

叢書 創元クライム・クラブ
出版社 東京創元社
発行日 2006/07/28
装幀 中川悠京、緒方修一

記憶の迷宮と混沌の万華鏡

山田正紀の長編小説『カオスコープ』は、ミステリSF が交錯する異色の作品です。2006年に東京創元社の創元クライム・クラブから刊行された本作は、読者の脳内をかき回すような驚きに満ちたミステリーでありながら、一種のSF的要素も併せ持つ物語となっています (カオスコープ 御光堂さんの感想 - 読書メーター)(当サイトでは、素直にクライム(冒険)もの として分類しています)。

山田正紀といえば幅広いジャンルで活躍する作風で知られており、例えば本格ミステリからサスペンス、歴史ミステリやSFミステリまで実に多彩です。本作『カオスコープ』でも、その真骨頂とも言える大胆な仕掛けとストーリーテリングが存分に発揮されています。

あらすじ(ネタバレなし)

物語の主人公は、記憶障害を抱える作家の 鳴瀬君雄(なるせ きみお) です。ある早朝、鳴瀬は自宅で他殺死体を発見してしまいます。さらに死体の近く、自分のポケットには血の付いたナイフが入っているのです。突然の惨劇と不穏な状況に、鳴瀬の脳裏には女性の悲鳴や凄惨な殺人シーンといった曖昧な記憶の断片が次々によぎります。自分自身の記憶すら信用できないまま、鳴瀬は 「やはり僕は、殺人者なのか?」 と恐れおののきます。さらには「自分が連続殺人の、そして父親を殺した犯人なのだろうか?」という疑念すら浮かぶのです。

一方その頃、世間を震撼させている「万華鏡連続殺人事件」を追う刑事の鈴木は、ある奇妙な傷害事件に着目していました。というのも、その傷害事件の被害者の名が鳴瀬君雄だったからです。重傷を負ったまま行方不明となっている鳴瀬を追って、鈴木刑事は鳴瀬の自宅へと向かいます。記憶が壊れたまま彷徨う男(鳴瀬)と、「そこにいない」相棒とともに事件を追う刑事(鈴木)。交錯する二人の運命はやがて一つの真実へと収束していくことになります。

二つの視点が生むカオス

『カオスコープ』最大の特徴は、そのストーリー構成にあります。物語は鳴瀬の視点と鈴木刑事の視点、二つの異なる視点から交互に描かれて進行していきます。鳴瀬パートでは一人称で語られる記憶の断片が錯綜し、時間軸も不明瞭で夢の中のような感覚に陥る場面もあります。一方の鈴木刑事パートでは、事件捜査の過程が三人称で比較的現実的に描かれます。この両パートが章ごとに入れ替わることで、読者は混乱しつつも物語に引き込まれていくのです。

実際、読者からも「少しずつ異なる記憶の断片がカットバックのように繰り返される」 (カオスコープ 御光堂さんの感想 - 読書メーター)と評されているように、鳴瀬の章では同じようで微妙に異なるシーンが何度も登場します。記憶障害に苦しむ鳴瀬にとって現実と妄想の境界が曖昧であり、その不安定な語りは読者にも良い意味での幻惑感を与えてくれます。次第に「何が起きているのか分からない」という感覚に読者も鳴瀬と一体化してしまい、まさにタイトルが示すような “混沌(カオス)” の中で物語を体験することになるでしょう。また、鈴木刑事の地に足の着いた捜査パートが差し挟まれることで、読者が完全に混乱してしまわないよう巧みにバランスが取られている点も見逃せません。

このように、語りの構造そのものが謎解きの鍵となっており、本格ミステリの手法で言うところの叙述トリックが駆使されている作品と言えるでしょう。

記憶と現実を巡るテーマ

本作のテーマの一つには「記憶」があります。主人公・鳴瀬は自分の記憶を信用できず、途切れ途切れの断片だけを手がかりに真実を追い求めます。この設定自体がミステリーとして非常にスリリングです。自分自身が事件の犯人かもしれないという疑惑に苛まれる状況は、ミステリーファンなら思わず引き込まれてしまうシチュエーションでしょう。また、タイトルに含まれる「カオス(混沌)」や、劇中で事件名に冠されている「万華鏡」というキーワードにも象徴されるように、秩序だった真実が見えない混沌とした世界が作品全体を覆っています。その混沌は物語が進むにつれて少しずつ形を成していき、最後には一つの絵柄(=真相)を浮かび上がらせる万華鏡のような効果を生み出しています。

ちなみにタイトルの『カオスコープ』は「カオス(混沌)」と「スコープ(scope=覗き込む装置)」を組み合わせた造語と思われ、混沌を映し出す万華鏡のような本作に相応しいネーミングと言えるでしょう。

さらに、本作は先述の通りSF的な要素も含んでいます (カオスコープ 御光堂さんの感想 - 読書メーター)。詳細はネタバレになるため控えますが、記憶や時間に関わるある仕掛けが物語の根幹にあり、現実と虚構、過去と現在が入り混じる展開は一つの推理小説に収まらないスケール感を伴っています。著者の山田正紀はこれまでもSFとミステリを組み合わせた意欲的な作品を発表してきましたが、『カオスコープ』でもその挑戦が存分に発揮されています。

読後の印象と評価

『カオスコープ』を読み終えたとき、読者はきっと独特の読後感に浸ることでしょう。序盤は意図的な情報の断絶や反復によって、思わず頭がぐるぐるするような感覚に陥りますが、物語が進むにつれて点と点が繋がり、一つの真相が浮かび上がったときには背筋が震えるような衝撃を味わえます。まさに「脳内をかき回されるようなすごいミステリー」であり、読者は混乱させられた末に見事に一本取られることになるのです (カオスコープ 御光堂さんの感想 - 読書メーター)。

一方で、その複雑な構成ゆえに読む人を選ぶ面もあるかもしれません。ミステリに慣れ親しんだ読者ほどこの巧みな構成と仕掛けに唸らされるはずですが、シンプルで直線的な推理小説を好む向きには「難解すぎる」と映る可能性もあります。しかし、山田正紀ファンであれば本作に散りばめられた遊び心やテーマ性にニヤリとするでしょうし、実験的なスタイルの物語がお好きな方にはたまらない一冊でしょう。

本作は、作者自身が後書きで某ハリウッド作品にインスパイアされて書いたと記しています。その元ネタを推理するのも一興です(ミスナビより)。特定の映画作品を指摘するレビューも見られますが、読者それぞれが思いを馳せるのも面白いでしょう。

おわりに

『カオスコープ』は、そのタイトルが示す通り混沌に満ちた物語です。ミステリ好きなら誰しも「真相解明」に挑む快感を味わいたいものですが、本作はその快感を得るまでに読者をとことん惑わせ、翻弄し、そして最後に大きなどんでん返しを用意しています。山田正紀という作家が持つ語りの巧みさと、ジャンルの枠を超えた発想力がぎゅっと詰まった本作は、まさに唯一無二の読書体験と言えるでしょう。

混沌の中から真実が立ち現れる瞬間のカタルシスは、一度体験すれば忘れられません。未読の方はぜひチャレンジしてみてください。ミステリファンや山田正紀ファンならきっと、『カオスコープ』のもたらす不思議な読後感に酔いしれることでしょう。