カテゴリ分析
「想像できないことを想像する」という有名な発言は、氏の代表作である「神狩り」を語る時に必ずと言っていいほど言及されています。リアルタイムでこの言葉に出会った読者はこの発言をどのように受け取っていたのでしょうか。氏より下の世代(私)には額面通り氏の天才性の証左として受け取っていたように思います。「本当にそうできる作家なんだ。かっこええ!」と。
若くしてのデビューだったから同世代の作家はいないし、所謂日本SF 第二世代とされる作家たちが氏の作家としての資質に関して言及しているものがほとんどです。想像するしかありませんが、日本SF 第一世代の大御所たちは、やっと出てきた期待の新人という頼もしい存在として捉えていたでしょう。伊東四朗風に言えば、
「元気があってよろしい!」
-- いとうあさこのピン芸に対する講評より
という感じだったのかもしれません。
第二世代とされる作家はどうかといえば、例えば、直接の言及はありませんが、田中光二はこう言っています。
ぼくと同じ、SF同人誌「宇宙塵」からデビューした作家で、ぼくからちょうど一年おくれで登場してきたのだが、えらいやつが現れたと率直にいってたじろいだ。
--「宿命の女」徳間文庫解説より
多分、嘘偽りのない正直な感想でしょう。日本SF界が多少ともざわついた事は想像に難くありません。
しかし、この解説が書かれたのが1986年6月ですから、デビューからすでに11年経っています。1986年5月20日発行の「幻象機械」まで、すでに45冊もの作品が発表されています。本格ミステリこそないものの、「贋作ゲーム」等のケーパーストーリーや「裏切りの果実」等のサスペンスなど、広義のミステリはものしています。つまり今に至る氏のものする全てのジャンルはこの頃にはすでに読者の元に届けられていたわけで、質・量ともに端倪すべからざる活躍ぶりです。そんな状況を踏まえた上でのこの田中光二の述懐は、もちろんデビュー後数年で感じたことに止めたというふうに理解したほうが良いでしょう。直接のライバル関係でもある以上、ここまでしか書けなかったというのが本当のところではないでしょうか。もちろん、横田順彌やかんべむさしなんかは褒めちぎっているわけですが、作風が被らないからこそのエールだったのでしょう。
素直に熱狂できたのは、編集者や評論家とされる人たちでしょう。それでも、当時はこの発言に対しての考察は寡聞にして知りません。
デビューに至る過程を教えてくれる、ハヤカワ文庫版「氷河民族」の柴野拓美氏の解説にあるこれまた有名な SFマガジン編集長森優氏の批評「テーマよしアイディアよし構成よしプロットよし、文章も誤字がいくつかあったほかは文句なし」 しかり。
雑誌「別冊新評」ー SF 新鋭7人特集号 ーの榊周一氏が「" 挑戦" と" 愛" の作家」と題した評論における 「神狩り」掲載時の SFマガジン編集長長島良三氏の興奮ぶりとそれ以上に熱い評論しかり(ちなみに、この評論で榊氏は山田正紀を「ぼくらの作家」 と呼んでいます。そして、講談社文庫版「ヨハネの剣」の解説では山名祐介氏も「おれの作家」 であると表明されています。……正直こういう風に「ぼくらの、おれの作家」と呼べるのは羨ましい。教師以外を「先生」と呼ぶのは好まないが、一世代違う私なんかからすると、「ヴィトゲンシュタイン先生!」ならぬ「山田先生!」となってしまうから……まあ実際は我が家では「マチャキ」と呼び捨てなのですが……)。
この時代の評論で好きなのは、徳間文庫版「神獣聖戦Ⅰ、Ⅱ」の伊藤昭氏の解説です。凝った構成で面白いのですが、なぜか「神獣聖戦Ⅲ」が出なかったので、解説も途中で終わってしまっています。続きが読みたい。
ところで、この伊藤氏の解説で重要な指摘があります。それは、山田正紀がかくも多くのジャンルに手を染め、同じ傾向のものを2作続けることがないという動機に「逃避願望」があり、それは自らの壊れやすい自我を守るための自分自身からの「逃走」であるとしていることです。これがどういう意味を持っていたのかは、21世紀まで待たなければならなかったのです。
「神獣聖戦Ⅱ」で、山田正紀の時間に対する考察をした解説が89年で、これは63作目の「延暦十三年のフランケンシュタイン」あたりまでの守備範囲となります。これ以後、「宝石泥棒Ⅱ」や「JUKE BOX」などはありますが、伝奇ものやミステリ・サスペンスの比重が多くなり、大森望氏の言う シリーズの時代(98年ハルキ文庫版「神狩り」解説より)に突入していくので、山田正紀の第1期はこのあたりになるのではないでしょうか。
そして迎えた21世紀。大病を乗り越えて発表されたのが「ミステリ・オペラ」で、この辺りからが第3期になるのでしょうか。
どうやらブーメランは三十年かかって、また、僕のもとに戻ってきたようです。もうぼくにはあまり時間がない。戻ってきたブーメランをすぐに投げ返したいと思います。SFに、ミステリーに、時代小説に、そのほかのありとあらゆる素晴らしい小説に向かって………行ってこい、そして帰ってこい、ぼくのブーメラン!
-- 「神狩り2」徳間文庫あとがきより
これに先立って、「神狩り」ハヤカワ文庫2002年(10刷)版あとがき(エッセイ)において、テキスト読解の方法論によって、現在の自分<私ー私>と「神狩り」を書いた当時の<私ー君>を置いて、「神狩り」について述懐しています。
あの頃、<私ー君>は自分を嫌悪しており、自分から遠ざかりたかった。その上で小説を書こうとすれば必然的にエンターテインメントに向かわざるをえなかった、とした上で、「死」を意識した今、
若い<私ー君>は自分がいずれ死ぬことになるなどと実感として理解していなかった。<私ー君>にはその意味で想像力が致命的なまでに欠けていたと言わざるをえない。(中略)まさか<私ー君>は<私ー私>がこんなふうに匿名性と対決することになろうなどとは夢にも思っていなかったのではないか。が、この匿名性は<私ー君>が望んでいたそれとは違う。<私ー君>が望んでいた匿名性は、自分が自分から逃走するために、それを得る必要性があった。
-- 「不在の私が、不在の君に。」より
伊藤昭すげえ! でしょ。
この辺りにきて、やっと「想像できないことを想像する」ことに関しての論考が見られるようになります。
例えば、神林長平の述懐
「想像できないことを想像する」と山田正紀は言った。「神狩り」はそれを実現した書物に違いなかった。私にはそれこそ衝撃的な言葉だった。山田正紀は、自らの後にデビューする SF作家たちに向かって、想像できないことを想像せよ、といったも同然なのだ。それは私にとって正しく呪文だった、護符に記して封印したくなるような。(中略)<神>を狩るというのはつまり、全くの自分の意思だけで小説を支成し立させたいという欲求に他ならない、言葉でなんでもできる<神>に操られるのを拒否し、書かれる側ではない、書く側になるぞ、という、これは宣言の書なのだ。
-- ハヤカワ文庫2010年4月5日版神林長平の解説「呪文を解く」より
そして、瀬名秀明は思いもよらない切り口で語ってくれています。
いったい「想像できないことを想像する・・・・・・・・・・・・・」主体は誰なのだろうか・・・・・・・・・・。
-- 徳間文庫「神狩り2 リッパー」解説より
なんと、そんな見方があったか。
二十一世紀のいま「想像できないことを想像する」という山田正紀のフレーズは新しい勁つよさを得て私たちを奮い立たせる。妄想の戦士は孤独であるが、しかし実際にはこの世界で彼こそが、本当は孤独でない存在なのだろう。
-- 徳間文庫「神狩り2 リッパー」解説より
同じ作家にとって、重い言葉だというのは想像に難くありません。
しかし、一般読者としてはこう思うだけです。どんどんブーメランを投げて欲しい、と。
我われは、認めて、待てばいいのである。
-- 「弥勒戦争」角川文庫かんべむさしの解説より
山田正紀のこれからを、羨望をもって期待する。
-- 「火神を盗め」文春文庫谷恒生の解説より
山田さんのSFって、大好きです、あたし。 -- 「竜の眠る浜辺」徳間文庫新井素子の解説より
私はまだ山田正紀に飢えている。
-- 「超・博物誌」集英社文庫東えりかの解説より
山田正紀の二十一世紀SFはここから始まる。この先いったいどこへ向かうのか、その行方をしっかりと見守りたい。
-- 「神獣聖戦 Perfect Edition」徳間文庫大森望の解説より
私も、読者の一人として次の物語を楽しみ待ちたいと思っている。
-- 「クトゥルフ少女戦隊」創土社菖蒲剛智の解説より
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