叢書 | 初版 |
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出版社 | 中央公論社 |
発行日 | 1989/10/20 |
装幀 | 落田謙一 |
収録作品
- オープニング
- パレード
- 火の輪くぐり
- 空中ブランコ
- パントマイム
- 綱わたり
- 猛獣つかい
- 魔術
- マチネ
- フィナーレ
はじめに
山田正紀の作品群は、その多彩なジャンル展開と独創的なアイデアが際立つことで知られています。特にSF領域においては、時間や意識、宇宙観に対する大胆な着想が多くの読者を魅了してきました。その中でも『ゐのした時空大サーカス』は、作者の持つ多面的な作家性が象徴的にあらわれた長編(連作的な短篇形式)と言えるでしょう。
本作のタイトルが示すように、“サーカス”という移動芸能集団のモチーフが用いられていますが、その正体は「三億年」を彷徨う時間SFでもあり、同時に「中年男の悲哀と記憶」を強く描いた人間ドラマでもあります。ここでは、作品のあらすじやテーマ、構成、そして読後に残る余韻を掘り下げつつ、考察していきたいと思います。
作品概要
時間を扱うSF作品としての位置づけ
山田正紀は、しばしば「SF的想像力の探求者」と評される作家です。その代表作の一つである『チョウたちの時間』でも「時間」をテーマに扱い、そして本作『ゐのした時空大サーカス』もまた「時間」が大きなモチーフとなっています。『チョウたちの時間』から10年、作者自身が“時間”という概念を長期にわたって探究していたことがうかがえます。
連作短篇形式と二つの視点
本作は、全体としては「連作短篇」の形式をとっています。章タイトルはサーカスの演目になぞらえた命名がされ、それぞれが独立した物語として読めながらも、最終的に全体が一つの大きな流れを形作る構成となっています。また、物語を語る視点は主に「中年男である健一」と「サーカスのピエロである“ぼく”」の二人に集約され、時折第三者的な視点が顔を出すことで読者の認識を多層的に広げる仕掛けが施されています。
あらすじと世界観
中年男・健一の物語
物語の冒頭は、健一がバイク事故を起こしかけた瞬間、かつて子供時代に見た「ゐのした大サーカス」を思い出すシーンから始まります。遠い記憶に結びついた強烈な無力感とともに、健一の回想が動き出す。このパートは、ファンタジックな出来事よりも、むしろノスタルジーや郷愁といった感情を中心に描写がなされており、一見すると「普通の小説」と言っても差し支えないほど、叙情性の強い物語として進みます。
健一は冴えない中年サラリーマンとして、自分の人生を振り返りながら、そこにちらつく子供時代の思い出と向き合います。家族や子供との関係を手がかりにしつつ、忘れかけていた「ゐのした大サーカス」の存在へと少しずつ意識が回帰するのです。そうした彼の内面世界は、喪失感や焦燥感といった「中年の悲哀」がリアルに描かれ、同時にどこか幻想的な雰囲気を帯びています。やがて、この健一パートの回想が、作品全体の時間テーマと絡み合っていくことになります。
“ぼく”たちの物語
一方で、連作のもう一つの柱が「ゐのした大サーカス」の内部から語られるエピソードです。こちらの語り部である“ぼく”は、時間を自由に行き来する能力を持つ存在でありながら、長い長い放浪の果てにサーカス集団として地球へ定住しかけている人々の一員です。
事故で母船から遭難した“ぼく”たちは30億年の旅を続け、やがて芸を披露することで生計を立てる「サーカス」へと変貌を遂げていきます。さらに、地球に定住した一部の種族は、いつの間にか「時間を移動する能力」を自ら封印してしまったとされ、これが我々人類の祖先である、という壮大な設定が展開されます。
この物語のスケールは非常に大きく、同時にメタフィクション的な香りも感じさせます。時間を自由に扱えるかに見える“ぼく”たちが、なぜ移動芸人という「三流サーカス」の形態を選んだのか。その理由の一端には、「終わりなき旅を続けるうちに、それが生きる術になった」という必然性があり、そこに中年男の抱える悲哀とは別種の苦悩、すなわち「あまりにも長い時を生きるがゆえの疲弊感」が浮かび上がってくるのです。
テーマ・モチーフの考察
時間SFとしての魅力
本作では、時間の扱い方が実に多面的です。一つは「人類は本来、時間を移動できる能力を持っていたのに、いつしか自らそれを封印してしまった」という設定。もう一つは「残された“ぼく”たちが30億年の時をかけて母船を探す」という壮大な放浪譚。そして、中年サラリーマン健一の視点は「日常の時間に束縛された我々が、まるで『時間』など意識していない日々を生きている」という姿を際立たせる役割を果たしています。
SFとして注目すべきは、これらの「時間」に対する姿勢が作品の随所で問われている点です。筆者が単に冒険活劇として時間旅行を描くのではなく、時間の移動がもたらす記憶やノスタルジー、あるいは生きている実感といった、人間的かつ哲学的な要素と密接に結びつけているところに最大の見どころがあります。
中年男の悲哀とノスタルジー
もう一つの重要なモチーフは、「中年男の悲哀」と「ノスタルジー」です。健一が抱える家族との問題や、子供の頃に感じた無力感は、時間をテーマとする壮大なSFの側面とは一見かけ離れたもののようにも見えます。しかし、それらが物語の大きな柱として機能することで、「時間的スケールの大きさ」と「個人の思い出」が不思議なコントラストを形作っているのです。
劇中において、健一の回想とサーカスの壮大な旅は、対比的に語られると同時に互いを補完する関係にもあります。膨大な時間軸をもつ“ぼく”と、わずか数十年程度の寿命に追われる健一。どちらが幸福で、どちらが不幸か。あるいは、人間が時間を移動しない(できない)という現実の方が、むしろ「いま、この瞬間を生きる」尊さを教えてくれるのではないか。そうした問いが読後に残る点が、本作の深みを支えていると言えるでしょう。
主な連作短篇の概要
本作は連作短篇形式のため、各章がサーカスの演目になぞらえたタイトルや内容をもっています。「パレード」「猛獣つかい」「フィナーレ」などが代表的です。このセクションでは、それぞれがどんな役割を担っているのかを簡単に整理してみます。
- オープニング バイク事故を起こしかけた瞬間に健一が思い出す「ゐのした大サーカス」。事故の描写とともに、子供時代の思い出がフラッシュバックし、読み手に独特のノスタルジーをもたらす導入部。
- パレード “ぼく”の視点で語られる、サーカス集団のはじまり。母船から遭難し、果てしない時間を放浪するうちに、「旅芸人」として生きる術を身につける過程が描かれる。サーカスの誕生を象徴する章。
- パントマイム 比較的第三者的な視点が絡む短篇。奇妙な味わいのエピソードであり、読者に本作の世界観を俯瞰させる役割を持つ。
- 猛獣つかい 人生や家族、仕事などについて考えさせられる、より現実寄りの内容。健一サイドの物語とサーカスの物語が交錯し、それぞれが抱える問題や葛藤が、いわば「猛獣」として象徴されているかのようにも読める。
- フィナーレ 連作の掉尾を飾る結末部。時間をめぐる壮大なテーマと、健一の視点で提示された「日常に縛られる人間」の視点が収束していく。ラストシーンの美しさやスケールの大きさは、本作の最大の見どころの一つとされています。
文体と構成の特徴
多面的な筆致
章ごとに筆致が変わっているのは、作者の得意とするところ。健一の回想シーンでは私小説的な抒情が目立ち、“ぼく”の語りではSF的論理展開が重視され、パントマイムのような第三者視点の章ではまた異なる雰囲気を感じさせます。これは、(今更ですが)作者の文学的な多様性と技巧の高さを示しています。『チョウたちの時間』で展開された「空間志向」と「時間志向」の概念を継承しつつ、より深層的な時間論へと昇華させている。
SF的アイデアと哲学的思索
時間をテーマとしたSFである以上、理論物理学的な論法や宇宙物理学的観点が物語に組み込まれています。もっとも、エンターテインメント小説として論理を綿密に構築するというよりは、作者独特の比喩表現や観念描写を通して「時間」に対する思索が披露されている印象を受けます。そこに哲学的な問いや、神とは何かといったメタフィジカルな要素がうっすらと垣間見えるのも、本作の魅力の一部です。
一方で、「神テーマSFともいえなくもないが、本作ではおまけ程度」とも評されています。あくまで中年男の断章や、三流サーカス団の没落(時代の変遷)など、人間的ドラマこそが中心にあり、それに“時間”というSF要素がスパイスとして加わっているというバランスが特徴的です。
キャラクター造形
健一
健一は、いわゆる平凡な中年サラリーマンとして描かれます。家庭や仕事に追われ、自分の人生がどこへ向かっているのかを考える余裕があまりない。そうした中年期特有の閉塞感や孤独感が、読者にとって感情移入しやすい人物像を形作っています。彼の視点パートは、人間ドラマの核となる領域であり、幻想的なSF要素と対比されることで、本作が“単なるSF”ではなく、“人間の生の輝きや儚さを映し出す物語”であることを浮き彫りにしています。
“ぼく”
“ぼく”たちは地球に定住しない「旅回り芸人」としての姿を保ちつつ、母船を探し続ける使命感を抱えています。数億年単位の時間を彷徨うというスケールの大きさは一見ファンタジックですが、その孤独や徒労感は現実的な苦悩にも通じるものがあります。つまり、“ぼく”というキャラクターを通じて描かれるのは、「永遠に生きるがゆえの苦しみ」とも言えるものであり、そこには中年男が抱える「短い人生の苦しみ」とはまた別種の哀愁が漂っているのです。
この二つの人物像が交互に提示されることで、読み手は「時間を持て余す者」と「時間に追われる者」という両極端な立場を行き来する感覚を味わいます。それは同時に、「自分は時間を自由にできないのに、なぜか時間を生きている実感が希薄だ」といったメタ的な問いへ誘われる契機にもなるでしょう。
「神テーマ」としての読み方
物語を大きく俯瞰すると、時間を支配できる存在や、時空を超越する旅というモチーフは“神”を思わせる要素を持ち合わせています。しかし、作中ではそれが「おまけ程度」であり、明確に神を論じるわけではありません。むしろ、人間の認知や思い込みが「本来の能力」を封印してしまっている、という科学と心理の狭間のようなテーマが浮かび上がってきます。
この点については、いわゆる“神”を直接的に登場させないことで、かえって神秘性が際立つと見ることもできますし、「実は人間自身が時間を超える力を持っていた」という考え方は、人間賛歌と解釈することも可能です。しかし、作者自身がそこを深堀りする意図を前面に出していないため、読者の側でいかようにも解釈の幅が広がる余地が残されているのです。
読後の余韻と評価
本作を読み終えたとき、もっとも強く残るのは「ノスタルジー」と「時間の不思議さ」でしょう。壮大なSF設定にもかかわらず、中心には冴えない中年男と彼の家族の物語があり、その思い出を通じて過去と現在を往還する感覚が漂います。そして同時に、“ぼく”たちが体験する果てしない旅というSF要素が、読者に「時間とは何か」「人生とは何か」という根源的な問いを突きつけてくるのです。
そして、「フィナーレ」のラストは特筆すべき美しさを備えています。ここに至るまでに、健一の視点と“ぼく”の視点が交錯し、過去と現在、あるいは三億年もの時間さえも折り重なりながら到達する結末は、一種のカタルシスをもたらします。読者は長大な時間旅行を疑似体験すると同時に、ごく日常的な人生観を深く見つめ直す感覚を得るはずです。
このように、『ゐのした時空大サーカス』はSFとしても文学作品としてもユニークな位置づけにあり、まさに奇書と名作の境界線上に立っていると言えます。
他作品との関連
上でも書いたように『チョウたちの時間』は、本作と同じく時間を扱った作品です。10年の隔たりを経て書かれた本作には、前作で用いられた「空間志向」と「時間志向」といったアイデアが再び登場し、それが“ぼく”たちのサーカス世界観を支える柱となっています。ただし、両作品は直接的な続編関係にはなく、設定を共有している部分があるという程度にとどまります。そこに作者の長年にわたる“時間”へのこだわりを垣間見ることができるのは興味深いところです。
まとめ:人間ドラマと時間SFの融合
『ゐのした時空大サーカス』は、「時間を移動する能力」というSF的アイデアを核にしながらも、「中年期の憂いや家族との関係」というリアルな感情を地続きに描いた作品です。サーカスという移動芸能のモチーフは一見ロマンチックですが、その背景には数億年規模の漂流と喪失感が横たわり、それが“ぼく”たちの哀愁を際立たせます。同時に健一の物語は、普通の人間が持つ「日常への埋没」を浮き彫りにして、読者に「時間を意識して生きるとはどういうことか」を問う役割を担っています。
本作の評価は一様ではありません。一部の読者は壮大な時間SFとしてのアイデアに目を見張り、また一部は中年男のノスタルジックな回想に魅了されるかもしれません。あるいは章ごとの文体変化を奇抜すぎると感じる人もいるでしょう。けれども、その多面的な読後感こそが本作の醍醐味といえます。時間というテーマにこだわり続けた山田正紀の作家性が、多層的に発現した一冊として、SFファンだけでなく幅広い文学読者に推奨したい作品です。