2025年5月27日

大江戸ミッション・インポッシブル(顔役を消せ) 初版書影

叢書 講談社文庫書下ろし
出版社 講談社
発行日 2019/11/14
装幀 遠藤拓人、岩郷重力

大江戸ミッション・インポッシブル(幽霊船を奪え)  初版書影

叢書 講談社文庫書下ろし
出版社 講談社
発行日 2019/12/13
装幀 遠藤拓人、岩郷重力

『顔役を消せ』『幽霊船を奪え』、その二部作が描く江戸という“装置”


はじめに:時代小説という枠を超えて

山田正紀といえば、SFをはじめとするジャンル文学の第一人者として知られる存在だが、『大江戸ミッション・インポッシブル』は、その技巧と想像力を時代小説に応用した、いわば“実験的”かつ“娯楽的”作品である。とはいえ、単なる異色作には終わらない。表の顔を持つ男が裏の世界を駆け抜け、江戸という都市の構造そのものに切り込む、野心的なシリーズとなっている。

本稿では、その第一巻『顔役を消せ』と続巻『幽霊船を奪え』を取り上げ、物語構造、主題、キャラクター造形、さらには背後にある思想的な意匠にまで触れながら、作品の魅力を掘り下げていきたい。


主人公・川瀬若菜という存在

川瀬若菜は、南町奉行所の最下層に位置づけられる「牢屋見廻り同心」として描かれる。役職としての権威はない。人望も乏しい。だが実のところ、彼にはもう一つの顔がある。江戸を陰で支配する泥棒組織「川衆」の棟梁――すなわち、都市の“裏の秩序”を保つ中心人物である。

興味深いのは、若菜が万能のヒーローではないという点だ。剣の腕にしても、特筆すべき強さがあるわけではない。判断力、変装、観察眼、そして仲間との連携で事件を解決していく。過剰な“主人公補正”が排されていることで、むしろ物語全体に信憑性が宿っている。


第一巻『顔役を消せ』──江戸の闇に潜む構造的暴力

物語は、吉原随一の花魁・姫雪太夫から若菜が相談を受ける場面から始まる。英国人の恋人から贈られた指輪が失われたことが、その発端だ。だが、事件の背景には、川衆の宿敵である「陸衆」の動きが見え隠れしていた。

次第に明らかになるのは、この盗難事件が単なる私的な問題にとどまらないという事実である。川衆と陸衆という二大勢力の抗争、そして吉原の楼主・茂平という“顔役”の存在。若菜は、表の職務と裏の立場のはざまで、江戸の闇に潜る。

特筆すべきは、戦闘描写や追跡劇の密度とテンポの良さだが、それ以上に印象に残るのは「都市が持つ暴力性」の提示である。江戸という空間そのものが、秩序と混沌の境界上に築かれた“構造物”として描かれている。

参照:時代伝奇夢中道・『顔役を消せ』書評


第二巻『幽霊船を奪え』──秩序からの離脱と、その代償

続編にあたる『幽霊船を奪え』では、物語のスケールが一段と広がる。新たな敵「どくろ大名」の登場、陸衆内部での主導権争い、そして“殺しの賭場”という異様な空間……。若菜は、もはや川衆の棟梁という立場にとどまらず、江戸という都市を支えるシステムそのものに対して揺さぶりをかけていくことになる。

ここで鍵を握るのが、若菜と花魁・姫雪太夫(本名:ゆき)との関係である。二人は幼少期に因縁を持ち、江戸という装置の一部として育成されてきた過去を共有している。その“運命”に抗うように、若菜は次第に裏の秩序から離脱しようとする。

参照:主水血笑録・『幽霊船を奪え』解説

陸衆=苦餓衆と川衆=渇衆という命名にも、作中で語られる「死谷」=渋谷という語源設定にも、作者の伝奇的な発想力が色濃く現れており、それが単なる娯楽では終わらない“思想小説”の側面を本作に与えている。


主題:江戸という都市の“裏仕様”

このシリーズで一貫して描かれるのは、都市・江戸がいかにして“浄化”と“暴力”という矛盾した構造の上に成立しているかという問題だ。

徳川幕府が平和を維持するために、裏社会の力を必要とした――という仮説は、伝奇小説の枠内にありながらも、ある種の歴史的リアリティを帯びている。

とりわけ、川衆と陸衆の対立が、ただの抗争ではなく、江戸という都市装置の“自己調整機能”として描かれている点は特筆に値する。敵役たちすら、それぞれの信念をもって行動しており、単純な善悪で割り切れる物語ではない。


まとめにかえて:異端から正統へ

『大江戸ミッション・インポッシブル』は、そのタイトルにこそ軽妙さを感じるものの、内実は非常に重層的で、多義的な作品である。

エンターテインメントとしても十分に楽しめる作品だが、SF、ミステリー、歴史小説とジャンルを横断してきた山田正紀ならではの「世界を逆照射するまなざし」が、確かにここにはある。

単なる“面白い時代小説”を超えて、読む者に問いを投げかける作品として、本作は極めて優れている。続巻が予定されていないのが残念でならないが、今なお“完結してほしくない”と感じる希有なシリーズでもある。


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