2025年4月5日

僧正の積木唄 初版書影

叢書 HONKAKU mystery masters
出版社 文藝春秋社
発行日 2002/08/30
装幀 大嶽恵一、京極夏彦 with Fisco

東西ミステリーの融合と歴史の重み

「僧正殺人事件は解決していなかった」—この一文から始まる山田正紀の「僧正の積木唄」は、ミステリーファンの心を鷲掴みにする衝撃的な設定を持つ作品です。S・S・ヴァン・ダインの古典的名作『僧正殺人事件』と横溝正史の金田一耕助シリーズを見事に融合させた野心的なパスティーシュは、単なるオマージュを超えた独自の世界観と深い歴史的洞察を兼ね備えています。2002年に文藝春秋社から「HONKAKU mystery masters」シリーズとして初版が刊行され、その後2005年には文春文庫としても出版されたこの作品は、多くのミステリーファンから高い評価を受けています。

驚愕の前提と時代設定

本作の最も衝撃的な設定は、名探偵ファイロ・ヴァンスによって解決されたはずの『僧正殺人事件』が実は真犯人を取り逃がしていたという点にあります。「ファイロ・ヴァンスは真犯人の奸計の前に敗北し、連続殺人は続けられた」という設定は、古典ミステリーの常識を覆す大胆な発想といえるでしょう。

物語は1930年代後半、第二次世界大戦へと向かう緊迫した時代のアメリカを舞台としています。この時代選択は偶然ではありません。横溝正史の設定によれば、金田一耕助はかつてアメリカに滞在していた時期があり、この空白期を巧みに利用することで、二つの名探偵の世界を自然に結びつけることに成功しています。全米に反日感情が高まり、日系人が差別される過酷な状況という歴史的背景は、単なる本格ミステリーを超えた重層的な物語を生み出しています。

物語の概要

『僧正殺人事件』から数年後、かつての事件現場であるディラード邸を久々に訪れたノーベル賞級の天才数学者アーネッソン教授が爆殺されるという衝撃的な事件が発生します。現場には奇妙にもアインシュタインの数式が残され、さらに郵便受けにはかつての事件と同じように、マザーグースの「積木唄」と「僧正」の署名を記した紙片が投函されていました。

排日運動が激化する時代背景の中、捜査当局は被害者の給仕人として働いていた日系人を容疑者として逮捕します。日系人コミュニティを窮地から救うため、久保銀造は当時アメリカを放浪していた金田一耕助を事件に引き込みます。阿片中毒から立ち直りつつあった金田一は、独自の推理力で新たな事件に挑むと同時に、『僧正殺人事件』の真相も明らかにしていくのです。

多層的な魅力

1. 本格ミステリーの継承と革新

本作の最大の魅力は、アメリカ黄金期本格ミステリーを代表するS・S・ヴァン・ダインと日本推理小説界の巨匠・横溝正史という東西の名匠を融合させた壮大な構想にあります。物語は全4部構成になっており、それぞれが別のミステリー作品へのオマージュとなっています:

  • 第一部「僧正殺人事件2」:ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』の続編
  • 第二部「日本棺の秘密」:エラリー・クイーン『ギリシャ棺の秘密』をモチーフ
  • 第三部「悪魔の積木唄」:横溝正史『悪魔の手鞠唄』をモチーフ
  • 第四部「Jの悲劇」:エラリー・クイーン『Xの悲劇』『Yの悲劇』をモチーフ

この構成自体が知的な遊び心に溢れ、ミステリー愛好家に多くの発見と喜びをもたらします。ダイイングメッセージ、首なし死体、見立て殺人など、古典ミステリーの要素が惜しみなく散りばめられ、黄金期への深い愛情が感じられます。

2. 歴史的背景の緻密な描写

本作は単なる探偵小説の枠を超え、1930年代末期のアメリカにおける排日運動や社会情勢を生々しく描いています。「黄禍論」に端を発する日系人差別、強制収容所への不安、そして時代の空気に漂う戦争の予感。これらの歴史的背景が物語と有機的に結びつき、一級の歴史小説としての側面も持ち合わせています。

ミスナビの評者が「社会派小説のような重めの雰囲気が漂う」と評しているように、この重厚な時代背景こそが本作の大きな特徴です。細かいトリックや謎解きだけでなく、時代と社会を映し出す鏡としての役割も果たしているのです。

3. 金田一耕助の知られざる過去

横溝正史作品では明確に描かれることのなかった金田一耕助のアメリカ時代と麻薬中毒の経験が、本作では重要な要素として描かれています。「みみのまばたき」のレビューにあるように、「阿片窟でまどろみにどっぷり沈んでいる金田一耕助を見つけ出すのが、なんとピンカートン探偵社をやめて作家に転身したダシール・ハメット」という設定は、ミステリーファンには堪らない演出です。

金田一耕助という探偵の原点に迫るかのようなこの設定は、横溝正史ファンにとって特別な意味を持ちます。「オッド・リーダーの読感」の評者が「歴史ミステリーの大傑作」と評しているように、名探偵の過去を探る外伝としての魅力も十分に備えています。

4. 文化的引用の豊かな織物

本作には『僧正殺人事件』や金田一耕助シリーズだけでなく、ヘミングウェイの『殺し屋』、ダシール・ハメット、『カリガリ博士』や『吸血鬼ドラキュラ』などのモンスター映画、フロイトの精神分析、シュールレアリスム、原爆実験の仄めかしなど、1930年代の文化的要素が豊富に取り入れられています。

「みみのまばたき」のレビューが指摘するように、これらは単なる「引用」ではなく、「間テクスト的な世界」を構築する重要な要素です。クイーン警視やダシール・ハメットなどが名前を伏せつつチョイ役で登場する演出は、「あなたは古本がやめられる」の評者が述べるように「ミステリ小僧の血が騒ぐ」仕掛けとなっています。

5. 「山田正紀テイスト」の独自性

先行する名作へのオマージュでありながら、本作が単なるファンフィクションにとどまらないのは、山田正紀独自の世界観が強く打ち出されているからです。「黄金の羊毛亭」の評者が「できあがった作品はやはり"山田正紀テイスト"としか表現のしようがありません」と述べているように、重厚なテーマ設定と細密な筆致は紛れもない山田正紀作品としての風格を備えています。

ラストの衝撃と作品の意義

物語のラストでは「僧正殺人事件」の真相と新たな事件の真相が見事に融合し、それまでばらばらだったように見えた伏線が一つに収束していきます。「Grand U-gnol」の評者が「ラストにて語られる事件の真相によって、「僧正殺人事件」から本書の著者が読み取った別の解釈と戦時中という背景が見事に融合し、別々の細かい道筋が見事一つに収束されていく様を見せ付けられた」と評しているように、最終的な謎解きは圧巻です。

単なるトリックだけでなく、戦争と平和、民族的偏見と正義、天才と狂気といった重いテーマを内包した本作は、「オッド・リーダーの読感」の評者が述べるように「英語で出版して、NMA賞CMA賞をとらせるべき作品」と言っても過言ではないでしょう。

読む際の注意点

本作は『僧正殺人事件』の後日談という設定であるため、原作のネタバレを含む部分があります。直接的な犯人の名前は明かされていないものの、ブクログの評者が「消去法で考えれば誰が『犯人』だったのかまるわかり」と述べているように、状況説明から『僧正殺人事件』の結末が推測できてしまう可能性があります。したがって、『僧正殺人事件』未読の方は、先にそちらを読んでから本作を楽しむことを強くお勧めします。

また、ファイロ・ヴァンスファンにとっては、彼が「迷探偵」としてややこき下ろされる描写があるため、ブクログの評者が「ファイロ・バンスは相当な『迷探偵』としてこき下ろされまくり。ファンには悲しいかもね」と述べているように、不満を感じる方もいるかもしれません。しかし、これも山田正紀が『僧正殺人事件』に対して持った独自の解釈の表れとして受け止めるとよいでしょう。

可能であれば、『僧正殺人事件』に加えて、金田一耕助の初登場作品である横溝正史の『本陣殺人事件』も読んでおくと、本作の魅力をより深く味わえます。

結論

「僧正の積木唄」は、本格ミステリーへの深い敬意と理解に基づきながらも、それを超える野心的な試みとして高く評価できる作品です。古典ミステリーの定石を守りながら社会的・歴史的背景を織り込み、時代の空気を鮮やかに描き出す手腕は見事としか言いようがありません。

「あなたは古本がやめられる」の評者が「帰ってきた名探偵小説、そして名犯人小説」と評しているように、本作は古典ミステリーの魅力を現代に蘇らせると同時に、新たな地平を切り開く革新的な一冊といえるでしょう。

東西の名探偵が交錯する歴史ミステリーの傑作として、ミステリーファンなら一度は読んでおくべき、魅力溢れる作品です。

引用元

文庫・再刊情報

僧正の積木唄 文庫書影

叢書 文春文庫
出版社 文藝春秋社
発行日 2005/11/10
装幀 Lock G.Holme + WONDER WORKZ。