叢書 | 初版 |
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出版社 | 文藝春秋社 |
発行日 | 1980/10/10 |
装幀 | 畑農照雄 |
収録作品
- 襲撃
- 誘拐
- 博打
- 逆転
はじめに
山田正紀の「ふしぎの国の犯罪者たち」は、日本のミステリー文学界に新風を吹き込んだ異色作です。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」をモチーフに、現実と幻想の境界線上で繰り広げられる犯罪遊戯を描いた本作は、単なる犯罪小説の枠を超え、人間の欲望や現実逃避の本質に迫る哲学的な問いかけを含んでいます。
本記事では、この魅力的な作品の世界観や各短編の特徴、そして作品全体が醸し出す独特の雰囲気について詳しく紹介していきます。
作品概要
「ふしぎの国の犯罪者たち」は、奇妙なバー〈チェシャ・キャット〉を舞台に展開される連作長編です。このバーでは、誰もが職業や本名を明かすことを禁じられており、常連客たちはそれぞれニックネームで呼び合っています。
物語は、ママと手伝いの「アリスちゃん」、そして常連客の「兎さん」「帽子屋さん」「眠りくん」たちが、ふとしたきっかけで現金輸送車襲撃を計画したことから始まります。彼らは次第に犯罪という「ゲーム」の魅力に引き込まれていき、様々な犯罪計画を立案・実行していきます。
本作の最大の特徴は、「不思議の国のアリス」をモチーフにした設定と、現実から切り離された空間としてのバー〈チェシャ・キャット〉の存在です。この設定により、作品全体に奇妙な非現実感が漂い、登場人物たちも犯罪行為をどこか現実から遊離した「ゲーム」として捉えていきます。
作品の魅力
- 現実と幻想の境界線 本作の最大の魅力は、現実と幻想の境界線上で物語が展開される点です。バー〈チェシャ・キャット〉は、現実世界に存在しながらも、そこに一歩足を踏み入れると別世界に迷い込んだかのような感覚に陥ります。この独特の空間設定が、登場人物たちの行動や心理に大きな影響を与え、彼らを犯罪という「ゲーム」へと引き込んでいきます。
- 犯罪のゲーム性 本作では、犯罪行為が単なる違法行為としてではなく、一種の知的ゲームとして描かれています。登場人物たちは、犯罪計画を立てる過程や実行する際の緊張感、成功時の達成感を、まるでパズルを解くような知的興奮として楽しんでいきます。この描写により、読者も犯罪者たちの視点に立って物語を楽しむことができます。
- キャラクターの魅力 「ふしぎの国のアリス」をモチーフにしたキャラクター設定は、本作の大きな魅力の一つです。「兎さん」「帽子屋さん」「眠りくん」といったニックネームは、原作のキャラクターを想起させつつも、独自の個性を持った魅力的な人物として描かれています。彼らの相互作用や、それぞれの特技を生かした犯罪計画の立案過程は、読者を物語の世界に引き込みます。
- 巧みな伏線と展開 各短編は、緻密に計算された伏線と、予想外の展開で読者を魅了します。一見不可能に思える犯罪計画が、巧みなトリックと登場人物たちの個性を生かして実現していく過程は、まさに知的興奮の連続です。また、予期せぬ障害や裏切り、逆転劇なども織り交ぜられ、最後まで目が離せない展開となっています。
- 哲学的な問いかけ 本作は表面上は軽快な犯罪小説でありながら、その根底には深い哲学的な問いかけが潜んでいます。現実逃避の行き着く先、人間の欲望の本質、遊びと犯罪の境界線など、読者に様々な問いを投げかけています。これらの要素が、単なるエンターテインメントを超えた奥深さを本作に与えています。
「襲撃」
物語は、バー〈チェシャ・キャット〉の常連たちが現金輸送車襲撃を計画するところから始まります。彼らの前に立ちはだかるのは、頑丈な装甲車と、警報が鳴ってから警官が到着するまでのわずか4分という時間制限です。 この厳しい状況に対し、奇術を趣味とする「兎さん」が立てた計画は、まさに予想外のものでした。計画立案を担当する「兎さん」、メカニックに強い「眠りくん」、そして荒事も辞さない「帽子屋さん」という役割分担で、彼らは警察の意表を突く見事な作戦を展開します。
この短編は、緻密な計画と予想外の展開のバランスが絶妙で、読者を一気に物語の世界に引き込みます。
「誘拐」
前編での現金輸送車襲撃事件の真相が、思いもよらない形で凶悪な三人組に知られてしまいます。窮地に陥った〈チェシャ・キャット〉の常連たちは、政治家の孫の誘拐事件に加担させられる危機に直面します。
しかし、彼らは決して諦めることなく、奇想天外な計画で三人組に逆襲を試みます。この逆襲計画は、前編以上に緻密で大胆なものとなっており、読者の予想を裏切る展開の連続となっています。
特筆すべきは、この計画が単に知的な面白さだけでなく、道徳的にも後味の良いものになっている点です。これは、犯罪をゲームとして楽しむ彼らの中にも、一定の倫理観が存在することを示唆しており、キャラクターの奥行きを感じさせる要素となっています。
「博打」
「帽子屋さん」が、かつての友人から持ちかけられた「うまい話」に乗ることから物語が展開します。政治家の使者を装い、マカオのカジノでイカサマ賭博の金を奪取するという大胆な計画です。
しかし、カジノに乗り込んだ「帽子屋さん」を待ち受けていたのは、予想外の危機の連続でした。この短編は、他の短編に比べてよりスリリングな展開が特徴的で、読者を息もつかせぬ展開に引き込みます。
特に印象的なのは、次々と訪れる逆転劇です。一見絶体絶命と思われる状況から、「帽子屋さん」が如何にして切り抜けていくかが見どころとなっています。そして、最後に待ち受ける痛快なラストは、読者に大きな満足感を与えるでしょう。
この短編は、犯罪ゲームの魅力と危険性を同時に描き出すことに成功しており、物語全体のテーマを強く印象付ける役割を果たしています。
「逆転」
物語は、「アリスちゃん」が出来心からアルバイト先の博物館からダイヤモンドを盗んでしまったことから始まります。これまで「ゲーム」として楽しんでいた犯罪が、突如として現実のものとなってしまった状況に、〈チェシャ・キャット〉の面々は戸惑いを隠せません。
彼らは、盗難未遂に見せかけてダイヤモンドを博物館に返還する計画を立てますが、その過程で予期せぬ障害に直面します。誰かに尾行されている感覚に襲われる常連たち。そして、「兎さん」の心に去来する不吉な予感。
この短編で特に印象的なのは、「兎さん」の「どんなに楽しい遊びにもいつかはかならず終わりが来るものなんだ……」という台詞です。この言葉は、これまで軽やかに展開してきた物語に、突如として現実の重みをもたらします。
「逆転」は、本作の最終章にふさわしい緊張感と哀愁を帯びた物語となっています。犯罪ゲームの結末が、読者の予想を超える形で描かれることで、本作全体のテーマである「現実と幻想の境界」「遊びと犯罪の線引き」といった問題に、改めて読者の意識を向けさせる効果があります。
作品の意義と影響
「ふしぎの国の犯罪者たち」は、日本のミステリー文学界に新しい風を吹き込んだ作品として高く評価されています。山田正紀がセバスチャン・ジャプリゾの作品を愛好していたことは、本作の独特な雰囲気や構成に大きな影響を与えています。特に、ジャプリゾが脚本を手がけた1974年のフランス映画「狼は天使の匂い」から本書のタイトルを思いついたという事実は、非常に興味深いポイントです。
この映画からの着想は、本作に独特の詩的かつ幻想的な雰囲気をもたらしています。「ふしぎの国のアリス」のモチーフと、フランス映画の持つ洗練された犯罪描写が融合することで、従来の日本のミステリーとは一線を画す作品が生まれたと言えるでしょう。
本作の特徴である「犯罪のゲーム化」という概念は、後続の作家たちにも大きな影響を与えました。犯罪を単なる違法行為としてではなく、知的な遊戯として描く手法は、日本のミステリー界に新たな可能性を開きました。
また、バー〈チェシャ・キャット〉という現実逃避の場を設定し、そこでの出来事を描くという構造は、現代社会における「逃避」の問題を先取りしたものとも言えます。インターネットやSNSが普及した現代において、この問題はより複雑化し、重要性を増しています。
さらに、本作は単にミステリーファンだけでなく、文学愛好家からも高い支持を得ました。これは、山田正紀が犯罪小説の枠を超えて、人間の欲望や現実逃避の本質を深く掘り下げることに成功したためです。フランス映画の影響を受けた詩的な文体と、緻密に計算された犯罪計画の描写が見事に調和し、高い文学性を持つ作品となっています。
現代的意義
「ふしぎの国の犯罪者たち」が発表されてから数十年が経過した今日、本作の持つ意義はさらに深まっています。セバスチャン・ジャプリゾの影響を受けた本作の独特な世界観は、現代社会の問題を考える上で重要な視点を提供しています。
- 現実逃避の形態の変化: インターネットやSNSの普及により、現代人にとっての「現実逃避」の形態は大きく変化しました。バー〈チェシャ・キャット〉という物理的な空間は、今日ではオンライン上の匿名コミュニティや仮想現実空間に置き換えることができるでしょう。本作は、そうした現代的な「逃避の場」が持つ危険性と魅力を、先見的に描き出していたと言えます。
- 犯罪のゲーム化という予言: 本作で描かれた「犯罪のゲーム化」は、現代社会において別の形で現実化しています。オンラインゲームやソーシャルメディアを通じた犯罪行為や、現実の犯罪をゲーム感覚で行う「ゲーミフィケーション」の問題は、本作が提起した問題の延長線上にあります。
- アイデンティティの流動性: バー〈チェシャ・キャット〉での匿名性と、それに伴うアイデンティティの流動性は、現代のインターネット社会を強く想起させます。本名や職業を明かさずに交流する彼らの姿は、オンライン上でのコミュニケーションの先駆けとも言えるでしょう。
- 倫理観の相対化: 本作の登場人物たちは、犯罪行為をゲームとして楽しみつつも、ある種の倫理観を持ち合わせています。これは、現代社会における価値観の多様化や倫理観の相対化を先取りしたものと言えるでしょう。「正義」や「悪」の境界線が曖昧になりつつある現代において、本作の示す視点は非常に示唆に富んでいます。
結論
山田正紀の「ふしぎの国の犯罪者たち」は、セバスチャン・ジャプリゾの影響を受けつつも、独自の世界観を持つ傑作として日本文学史に名を残しています。フランス映画「狼は天使の匂い」からインスピレーションを得たというエピソードは、本作の持つ国際的な香りと、詩的な犯罪描写の源泉を示唆しています。
本作は、エンターテインメントとしての面白さと哲学的な深みを兼ね備え、発表から年月を経た今日においても、いや、むしろ現代だからこそ、より大きな意義を持つ作品となっています。現実と仮想の境界が曖昧になりつつある現代社会において、本作の提起する問題は極めて今日的なものです。
「ふしぎの国の犯罪者たち」を読むことは、単に面白い物語を楽しむだけでなく、自分自身や社会について新たな視点を得る旅にもなるでしょう。そして、物語を読み終えた後、あなたも一度バー〈チェシャ・キャット〉を訪れてみたくなるかもしれません。
ただし、そこで繰り広げられる「ゲーム」に、あまりのめり込みすぎないよう注意が必要です。なぜなら、「兎さん」の言葉通り、「どんなに楽しい遊びにもいつかはかならず終わりが来るものなんだ」からです。この言葉の持つ意味を、胸に刻みながら物語の世界を楽しんでいただければと思います。
山田正紀の「ふしぎの国の犯罪者たち」は、ミステリーファンのみならず、現代社会に生きるすべての人々にとって、読む価値のある作品です。セバスチャン・ジャプリゾやフランス映画の影響を受けた、この不思議な「犯罪ゲーム」の世界に足を踏み入れてみませんか? きっと、予想を超える知的興奮と深い洞察が、あなたを待っているはずです。
文庫・再刊情報
叢書 | 文春文庫 |
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出版社 | 文藝春秋社 |
発行日 | 1983/10/25 |
装幀 | 畑農照雄 |
叢書 | 昭和ミステリ秘宝 |
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出版社 | 扶桑社 |
発行日 | 09/02/28 |
装幀 | 平野甲賀、北見隆 |
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