帰り舟

帰り舟
深川川獺界隈(ふかがわかわうそかいわい)

帰ってきたのは、過去と決着をつけるためだった。

2025年5月9日
2025年5月9日

帰り舟 初版書影

叢書 朝日文庫
出版社 朝日新聞出版
発行日 2009/10/30
装幀 芦澤泰偉、アフロ

帰ってきた男が投じる一石――山田正紀『帰り舟』の江戸悪党絵巻に酔いしれる

 江戸の風情と、一筋縄ではいかない人間たちの生々しいドラマが交錯する物語は、いつの時代も私たちを惹きつけてやみません。本日ご紹介するのは、SFの巨匠・山田正紀が描く本格時代小説にして、鮮烈なピカレスク・ロマンの傑作、『帰り舟』 です。

『帰り舟』――深川の闇に蠢く人間たちの狂騒曲

船宿「かわうそ」を営む父親とそりが合わず、十八の時に家を飛び出して諸国をさすらい、賭場から賭場へ渡り歩いてきたどんどんの伊佐次は、五年ぶりに故郷の深川は川獺に帰ってきた。行方知れずの“赤猫”を探しに……。早速出会ったかつての弟分、今は屋根職人の源助は、なぜか孝行息子としてお上から褒美を下される一方で、元締・稲荷の徳三が構えた賭場にすっかりはまり込んでいた。そして、急死した父親の葬儀にその稲荷の徳三を含めた怪しげな者たちが顔を出したのを目にした伊佐次は……。

山田正紀といえば、壮大なスケールのSF作品や緻密なミステリで知られる作家ですが、『帰り舟』ではその筆致を江戸時代に向け、深川という土地を舞台に、悪党たちが躍動するピカレスク・ロマンを描き出しました。朝日文庫書き下ろし時代小説〈深川川獺界隈〉シリーズの幕開けを飾る本作は、著者にとって「江戸を舞台にした純粋な時代小説」という新たな挑戦でもあります。(後書きより)

江戸の闇に生きる、一癖も二癖もある人々

物語の主人公は、五年ぶりに故郷・深川に戻ってきた博打打ちの伊佐次。彼が帰郷して早々、船宿を営んでいた父親の急死という知らせが舞い込みます。表向きは病死とされる父の死に、伊佐次は不審を抱き、その真相を探り始めます。

この伊佐次を取り巻くのが、一筋縄ではいかない面々。かつての弟分で、表向きは孝行息子として知られながら賭場に入り浸る源助。その源助をいいように利用しようとする元締・稲荷の徳三。そして、伊佐次が追い求める謎の存在“赤猫”……。彼らの思惑が複雑に絡み合い、物語は予測不可能な展開を見せていきます。

書評サイト「時代伝奇夢中道 主水血笑録」では、「登場人物の九分九厘が、悪党かダメ人間という凄まじさ」と評されていますが、まさにその通り。(時代伝奇夢中道 主水血笑録より) しかし、彼らは単に唾棄すべき存在として描かれているわけではありません。むしろ、そのダメっぷりや悪党ぶりの中に、奇妙なまでの生命力や人間臭さが宿っており、読者はいつしか彼らの動向から目が離せなくなってしまいます。

「悪党でもダメ人間でも、自分の生を必死に生きていく…かつての山田作品には、どこか狂熱的なエネルギーを内に秘めたキャラクターがしばしば登場していた印象がありますが、本作はそうしたエネルギーが、表に向かって迸っているように感じられるのです。」 (時代伝奇夢中道 主水血笑録)

この「エネルギー」こそが、本作の大きな魅力と言えるでしょう。

山田正紀流ピカレスクの真骨頂

山田正紀作品の持ち味の一つに、巧妙なプロットやゲーム性が挙げられますが、本作でもその魅力は健在です。特にクライマックスとなる賭場での大勝負は、手に汗握るスリルに満ちており、伊佐次が仕掛ける「最後の一手」には、周到に張り巡らされた伏線が見事に回収されるカタルシスがあります。

また、道を踏み外した人間たちが、土壇場で見せる意地や、そこから生まれる一縷の希望のようなものも、山田作品らしい味わいです。弟分の源助が、博打の深みにはまり、とんでもないものを担保にしてしまう様は、まさにダメ人間の典型。しかし、そんな彼が伊佐次の助けを借りながら勝負に挑む姿には、どこか応援したくなるような気持ちも湧いてきます。

『火神を盗め』などと同様に、“ダメ人間”である源助らが勝負を通じて手にする達成感が決着後のカタルシスを際立たせているあたり、山田正紀らしさが大いに表れている感があります。」 (黄金の羊毛亭)

この辺りの匙加減は、さすがベテラン作家の筆致と言えるでしょう。

シリーズの今後に寄せる期待と一抹の不安

物語の終盤では、シリーズの副主人公となるであろう浪人・堀江要が登場し、伊佐次の本来の目的である“赤猫”探しへと話が繋がっていく巧みな構成となっています。しかし、多くのファンが指摘するように、このシリーズは残念ながら現時点で中断している模様です。

「で、楽しくワクワクして読みましたが、終わってないじゃん・・・。」 (たまらなく孤独で、熱い街)

「こらこら。また思いっきり引っ張る終わりかたして……。 でもね、でもね、副主人公が出てきた回で終わっているって……。」 (ブクログ)

魅力的なキャラクターと謎を残したまま物語が一旦幕を閉じるため、読者としては続きを渇望せずにはいられません。この「引き」の強さもまた、本作の魅力の一つではありますが、同時にヤキモキさせられる点でもあります。

最後に

『帰り舟』は、江戸の深川を舞台に、一癖も二癖もある悪党たちが織りなす、スリリングで痛快なピカレスク・ロマンです。山田正紀ファンはもちろんのこと、読み応えのある時代小説を求めている方、人間臭いキャラクターたちが活躍する物語が好きな方には、ぜひ手に取っていただきたい一作です。

シリーズの続刊については、現時点では情報がありませんが、この濃密な江戸の世界観と魅力的な登場人物たちが、再び私たちの前に姿を現してくれることを願ってやみません。まずはこの第一弾で、深川川獺界隈の危険な魅力にどっぷりと浸ってみてはいかがでしょうか。